「あんさんみたいになりたい」「あんさんのライフスタイルに憧れる」というメッセージを毎日ようにいただきます。ただ、その後に続く言葉は「だから○○に挑戦中です」というポジティブな言葉よりも
・家事が忙しくて時間がありません
・やりたいことが分かりません
・こんな私が何を発信したらいいのか
・○○だったら成功しますか?
・お金がありません
というようなネガティブな発言が多いです。
私は、50歳ある夜、突然にアメブロで発信し始め5年後、起業しました。現在は、自分の好きなことを仕事にして、好きなものを食べて、時々ふらっと旅に出て、愛犬との暮らしを楽しみながらストレスのない生活を送っています。
このような生き方を多くの人にシェアしたいと考えてLIFE SHIFTーBLOG LESSONや実践型の起業コンサルティングをしています。と、ここまで書くとあっさりと上手くいっているように見えますが、全くそんなことはありません。
実に5年間も、インフルエンザで高熱を出そうが、介護で泣きそうな日でも、ネタがなくてウンウン唸りながらも、PCの前に座り文章を書き続けました。
もともと文章を書くのが好きならばともかく、学校の読書感想文の宿題ですら、本の前書きとあとがきを転記して出すような生徒でした。
女子生徒の間で流行った交換日記も続いたためしがありません。しかもPCだってほとんど使ったことがなかったのです。
その時は今のような未来があるとは全く予想もしていませんでした。
ただ、60歳になるまでに、やりきったという実績が欲しかった。そして、やって失敗することよりも、やらなかったことを後悔する人生にだけはしたくなかったからです。
私が結婚したのは平成元年1月のこと。1986年の男女雇用機会均等法ができて3年後です。大企業には勤めていましたが、周りと同様にお茶くみ女子社員です。
そんな中でいわゆる総合職で働く女性をひとりだけ知っていました。彼女に対して婚期を逃して可哀そうという、今から考えると大変失礼な視線を向けていました。
それは昭和時代の「良い人と結婚さえすればあなたの人生はバラ色」と、ハイスペックな男性と結婚することが人生のゴールだと疑わなかった昭和の価値観が大きな原因の一つです。
その価値観が徐々に崩れていったのは、40歳の時にパートに出て、社会的に自立した女性の中で働いたことがきっかけです。
資格など何もなく、雑用係でお手伝い気分で始めた職場では、残念なことに名前すら覚えてもらえませんでした。
「ちょっとそこの人」と呼ばれた時の屈辱感。「○○さんの奥さん」から始まって「○○ちゃんのママ」と呼ばれる名無しの権兵衛さんは、社会に出ても顔がないんだと感じました。
悔しさのあまり、自分の名前を覚えてもらえるように仕事を頑張りました。ただ、いくら頑張っても時給900円からは抜けだ出せなかったのです。
前例がないという理由から「資格保持者でない君が立場を上げるには、もっと貢献しないとね」と言われた瞬間に「辞めよう」と決心。人生初の就活をして、憧れの正社員になれたのです。
この経験で得たことは、行動すれば何かしらの変化があるということです。自分のことを低く見積もる周りに対して「どうせ私なんて」「仕方がない」と腐らず、自分ができることをやることで、現実が変わっていくのを実感しました。
だから毎日のように届くネガティブな言葉の陰には
・現実を変えたい
・このまま人生が終わるのは嫌だ
・私にも何かできるはずだ
・経済的・精神的にも自立したい
・もっと自由が欲しい
という心の叫び声、本心が聞こえてきます。
だったら「やってみたらいい」と思うのです。日本に生まれただけで、基礎学力は世界においても非常に高いレベルを持っています。
明治や大正時代生まれならば読み書きができない人はいたかもしれません。しかし、昭和以降、日本ではそんな人はいません。これはもう、生まれもって文章を書くというスキルを身につけていると言えます。そのスキルをそのまま、死ぬまで何の役にも立てずにしまっておくのは非常に勿体ないことだと思うのです。
全くの「ゼロ」から「憧れの世界」へと、自分次第で行ける世の中にここ10年で大きく変化しました。
そうです、自分次第で誰もが平等にチャンスを掴むことができる時代に。そのことにうっすらと気づいていても、まだまだ行動にまで移している人は少ないです。だからこそ先行逃げ切りでやったもん勝ちになれます。
そう、あなたが自分の可能性さえ信じることができたら。